545 大覚寺

2010年11月27日

No 7  大覚寺

一眼デジカメを持った時点を”再京都元年”として、京都の名だたる所をシラミ潰しに写真を撮りまくろうと一昨年から始めたのであるが、今回は高尾等の所謂「三尾」と嵯峨野に絞った。

時あたも紅葉の季節、京都のお友達”T"さんの愛車のお世話になりながら、「高山寺」「西明寺」「神護寺」と回って、「三尾」を終了し、嵯峨野に向かい、最初は「大覚寺」に入った。

ご存知の通り、ここは「旧嵯峨野御所」と言われるところ、入り口からして風格が違う。

「大覚寺」  (拝観料 ¥500)

ウイキペディアによれば・・・

大覚寺(だいかくじ)は、京都市右京区嵯峨にある、真言宗大覚寺派大本山の寺院。山号を嵯峨山と称する。本尊は不動明王を中心とする五大明王、開基は嵯峨天皇である。嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室ゆかりの寺院である。また、後宇多法皇がここで院政を行うなど、日本の政治史に深い関わりをもつ寺院である。また、嵯峨天皇に始まるという華道嵯峨御流を今に伝える寺でもある。

時代劇の撮影所が多い太秦の近くということもあり、寺の境内(大沢池や明智門など)は(特に時代劇の)映画やテレビなどの撮影によく使われている

嵯峨野の北東に位置するこの地には、平安時代初期に在位した嵯峨天皇が離宮を営んでいた。嵯峨天皇の信任を得ていた空海が、離宮内に五大明王を安置する堂を建て、修法を行ったのが起源とされる。嵯峨天皇が死去してから30数年後の貞観18年(876年)、皇女の正子内親王(淳和天皇皇后)が離宮を寺に改めたのが大覚寺である。淳和天皇の皇子(嵯峨天皇には孫にあたる)恒貞親王(恒寂(こうじゃく)法親王、仁明天皇の廃太子)を開山(初代住職)とした。

鎌倉時代になると、亀山法皇や後宇多法皇が入寺し、ここで院政を行ったため「嵯峨御所」とも呼ばれた。なかでも、後宇多法皇は伽藍の整備に力を尽くしたため、「中興の祖」と称されている。亀山法皇・後宇多法皇の系統は当寺にちなんで「大覚寺統」と呼ばれ、後深草天皇の系統の「持明院統」と交代で帝位についた(両統迭立)。この両系統が対立したことが、後の南北朝分裂につながったことはよく知られる。元中9年(1392年)、南北朝の和解が成立し、南朝最後の天皇である後亀山天皇から北朝の後小松天皇に「三種の神器」が引き継がれたのも、ここ大覚寺においてであった。

このように、皇室ゆかりの寺院であり、代々法親王が住職となった門跡寺院であるため、現在でも御所風の雰囲気がただよっている。御所跡地が国の史跡に指定されている。

嵯峨菊の展示があったが、余りにも改まった感じがあって、近寄る人もなく(?)・・・・・

「嵯峨菊」

「大沢池」

京都は訪れる人が多いが、今は紅葉のシーズン、今日は平日であるが、駐車場はかなり混雑しているので、効率よく廻るためには、車を止めておいて、足で稼ぐが一番と心得て、車はここ「大覚寺」の駐車場に置いたまま、次の訪問地は約720m北方の「直指庵」に歩きはじめたが、その写真は次回に取っておきたいのだ。

                     続く

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コメント

たきあん
2010年11月28日 09:29
木燃人さん
もう100回以上も訪れたでしょうか、しかし一度も入ったことがありません。(もっとも大沢の池の方ですが) この寺の除夜の鐘を聞いて新年を迎えた事も度々です。 嵯峨天皇の離宮であったとのこと、さすが皇室ゆかりのお寺で立派でした。 嵐山の山々の紅葉が庭の借景になって当時もこの姿は変わっていないのでしょうね。ひとときをその時代にタイムスリップして楽しい思いをしました。 観光客が「このお寺紅葉が少ないね」と話しているのを聞いて私も「ホントに少ないなあ」と感じていましたが結構、紅葉もあったのですね。 写真中ほどに個人宅風の家屋と池の写っている写真がありますが我家と似ているなあと思いました。(カーテンの色も) 大覚寺と見比べるなんて不謹慎ですが正直な感想です。 お許し下さい。


木燃人
2010年11月28日 09:59
たきあんさん
流石は御所ですねー!。 整然と配置され手入れも隅々まで行き届いています。やはり風格が一味もふた味も違います。 ちょっと、”わび”や”さび”が欲しいところですがね。