595 洛中散策 (6) 本能寺

2011年03月07日

2011.02.02(水)、洛中散策と称した京都てくてく歩きをやってるが、今回は洛中の今まで訪れてない所、つまりは、大きくて有名な所でない寺社ばかりを10社ほど訪れようとしているが、その中で、唯一名前が知られているのが、これから尋ねる「本能寺」であり、今回のメインとも言える所である。

洛中古寺シリーズ(4) 本能寺 (ほんのうじ)

所在地   中京区寺町通御池下ル下本能寺前町522
   宗派    法華宗本門流大本山 
   拝観    境内自由
   「敵は本能寺にあり」で知られる、織田信長自刃の寺

下は京都市役所前にある、本能寺への裏門であるが、ビルに挟まれて、今にも押しつぶされそうに見える。

ウイキペディアによれば・・・・

本能寺(ほんのうじ)は、京都府京都市中京区にある、法華宗本門流の寺院。

本尊は、日蓮が定めた久遠常住具足の「南無妙法蓮華経」の曼荼羅である。織田信長が明智光秀に討たれた「本能寺の変」で知られる。塔頭が七院ある(恵昇院、蓮承院、定性院、高俊院、本行院、源妙院、龍雲院)。

本能寺は、当初は「本応寺」という寺号で、室町時代の1415年(応永22年)、京都油小路高辻と五条坊門の間[1]に、日隆によって創建されたものである。日隆は、妙本寺の月明と本迹勝劣をめぐって対立したため、月明の宗徒によって本応寺は破却され、日隆は河内三井・尼崎へ移った。 1429年(永享元年)、帰洛して大檀那の小袖屋宗句の援助により、千本極楽付近の内野に本応寺を再建し、さらに1433年(永享5年)、如意王丸から六角大宮の西、四条坊門に土地の寄進を受け再建し、寺号を「本能寺」と改めた。

その後、本能寺は日蓮の本義である「本門八品」の法華経弘通の霊場として栄え、中世後期には京都法華宗21ヶ本山の一つとなり、足利氏の保護を受けた。寺域は六角以南、四条坊門以北、櫛笥以東、大宮以西で方4町(約4万m2)の敷地を有し、また多くの子院も有していた。 応仁の乱後、京都復興に尽力した町衆は、大半が法華宗門徒で、本能寺は、その本山として繁栄した。

1536年(天文5年)、比叡山との教義論争に端を発した天文法華の乱により堂宇はことごとく焼失し、一時堺の顕本寺に避難した。 その後、1547年(天文16年)-1548年(天文17年)の頃帰洛し、日承上人(伏見宮第5代邦高親王の子)が入寺し「第8世」を称し、四条西洞院・油小路・小角・錦小路にわたる地域(旧本能小学校のあたり)に広大な寺地を得て、大伽藍が造営され、子院も30余ヶ院を擁した。

日隆の開山以来、尼崎の本興寺とともに山号はなく両山一貫主制をしいていたが、その後、歴代貫主が地方に布教し、日承の時代には末寺が畿内、北陸、瀬戸内沿岸諸国さらに種子島まで広布し、本能寺を頂点とする本門流教団が成立した。本能寺は、早くから種子島に布教していたことから、鉄砲・火薬の入手につき戦国大名との関係が深かった。

織田信長は日承に帰依してこの寺を上洛中の宿所としていたが、1582年6月21日(天正10年6月2日)、ここで信長が明智光秀率いる軍勢に包囲され自刃する事件が起き(いわゆる本能寺の変)、その際、堂宇を焼失した。

流石、信長の墓は立派だ。

本能寺の変での死者が祀られているとか、さすれば森蘭丸もここに眠るのであろと・・・

他にもいくつか墓があるが、省略した。

これが表門

上の写真左端の石碑、「能」でない、再々火災に遭ったのはヒ(=火)が二つもあるからだ、火が”去”るようにと、願ったものだそうな。

表門を出るとそこは市役所前から南方に延びる、「寺町専門店会商店街」のアーケードだ。

本能寺を出た後は、矢田寺などを廻り、下の旧本能寺跡に向ったのであるが、編集の都合上下記に示す。 中京区蛸薬師通小川通西南角 にある、旧本能寺の跡地には、標識があるのみである。

記述を探して見た・・・

天正10年(1582)、織田信長は明智光秀の謀反によって本能寺で自刃し、天下統一を目前にして49歳の生涯を閉じた。 この時の本能寺は現在の “京都市中京区寺町御池下る” ではなく、本能寺の南西、直線距離にして約600m、堀川高校の北、旧本能寺小学校跡(中京区油小路通蛸薬師山田町)付近で、本能寺跡を示す石碑が建てられている。  もっとも、現在の石碑も本能寺小学校の跡地に建てられる老人ホームの建設工事のために東に移動させられている。

この石碑は誠に”らしからぬ”貧相なものであるが、現在は別の地にもう少し”まし”なのが建てられているそうである。

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コメント

shuttle
2011年03月07日 19:15
木燃人さん
織田信長は、愛知県人で、郷土3英傑の一人です。アキには名古屋市で盛大な3英傑祭りがあります。しかし、私は英雄に対しては、好感を抱いていません。特に信長に対しては、「虐殺者」のイメージしかありません。だから「本能寺」で自刃したのも「因果応報」と思っています。お参りもせず、「本能寺」は眺めただけです。


木燃人
2011年03月07日 19:27
shuttleさん
そうですね、信長は個性が強かったように語られてますから、好き嫌いはっきり分かれる人ですね。「強さやリーダーシップ」と「思いやりや公平さ」の違いで別れましょうね。しかし、今の日本には信長さんに再登場願いたい所ではないでしょうか?。 お寺に入るとき、頭を垂れ、賽銭を入れ、手を合わせますが、これは写真を撮らせてもらうための”儀礼”であって、魂は何も入ってはいません。これでは参拝とは言えないのですが・・・・。


たきあん
2011年03月08日 14:53
木燃人さん
本能寺の変は歴史好きの父からもよく話を聞いていました。 近所の老いの坂を通る時は明智光秀の心情を想像します。小心者には想像すら出来ません。 今の菅政権とは比較できないとしても信長の独裁政治には驚きです。人がついて来るのだから。 前原氏も辞めるという今は仰る様に信長のような人が出てくることを期待してしまいます。


木燃人
2011年03月08日 16:53
たきあんさん
たきあんさんには、面白くない話材で申し訳ないですが、当面、旬の記事を優先してゆきますので、よろしくお願いします。 前原氏、京都から次期総理かと思いましたが、少し下がりましたね。泥舟に乗って、一緒に沈没するよりは、いいのかもね?。 いずれにせよ、信長のような強力なリーダーシップのある人がが絶対必要ですよ、日本には!。


sawaka
2011年03月08日 20:55
木燃人 さん
「本能寺」歴史に残る「本能寺の変」は大河ドラマに よく出ます。現在では、アーケード街もあり此処で 戦が繰り広げられた、歴史が物語っているんですね。 今も、昔も、戦いは終わる事はなく、政治も混迷して います。もう少し歩み寄りがほしいですね。


木燃人
2011年03月09日 08:03
sawakaさん
京都に来ると、”つわものどもが夢の跡”を見る事が出来、歴史に思いを馳せるのもいいものです。 そうでした、先日の大河ドラマの後日談に、現在の本能寺が登場しましたが、この目で見た現実と、ドラマの中での本能寺では、時代の違いがあまりにもはっきり出てしまい、少し違和感を感じましたが、焼失し場所も変わってますから仕方のないことです。