600 洛中散策 (11) 仏光寺、平等寺

2011年03月27日

2011.02.02(水)、御所の近くの「清浄華院」から始めた、京都てくてくも次が予定の10寺目になる、既に足の痛みはひどくなって来たが、未だ15時にもなって居ない、折角きたのだからと、自らを励まし歩いた。

本能寺跡から南西方向、四条通と烏丸通を横断しながら、約1.4Kmを歩いた。

洛中古寺シリーズ(10)仏光寺(ぶっこうじ)

所在地  下京区高倉通仏光寺下ル新開町397
   宗派    真宗仏光寺派本山
   拝観    境内自由
   東西本願寺に次ぐ方城を構え南北朝、幕末維新には女性が門主に。

佛光寺(ぶっこうじ)は、京都府京都市下京区にある真宗佛光寺派の本山。山号は、渋谷山(汁谷山)。京都渋谷(しぶたに)に寺基があった頃(1300年代後半 - 1400年代前半)は、同じ浄土真宗の本願寺をしのぐ勢力があった。「仏光寺」とも表記されるが、正式には「佛光寺」である。

承元元年(1205年)、専修念仏は停止され、浄土真宗の宗祖とされる親鸞は越後国に配流された(承元の法難)。寺伝によると、親鸞は赦免の翌年の建暦2年(1212年)に京都に帰り、山城国山科郷に一宇を創建し、順徳天皇より聖徳太子にまつわる「興隆正法」の勅願を賜り、「興隆正法寺」と名づけた。

これが後の佛光寺で、親鸞はこの寺を弟子の真仏にまかせ、その後、阿弥陀仏の本願をひろめるため関東行化に旅立ったとされる。しかし、親鸞が山科に興正寺を建てたとするには寺伝以外の根拠に乏しく、史実としては、配流先の越後より直接関東方面へ向ったとする説が有力である。[

佛光寺教団の直接の母体は、武蔵国の荒木門徒(第3世源海)、阿佐布門徒(第4世了海)である。存覚の協力と時衆の影響の下、光明本尊・絵系図・名帳などの媒体を用いて布教活動に力を入れ、精力的に西国の布教をおこなう。結果、畿内以西の真宗念仏宣布の根本法城となった。

これに対して本願寺第3世法主覚如は、建武4年(1337年)に『改邪抄』を著し、絵系図などを真宗にあらざるものと批判する。元応2年(1320年)、第7世了源により、教化活動の拠点を旧仏教の盛んな京都東山に移すべく、山科から今比叡汁谷(しるたに)または渋谷(しぶたに)(現在の京都国立博物館の辺り)に寺基を移した

史実としての佛光寺は、了源が山科に建てた草庵を今比叡汁谷に移して寺格化したことをもって開創とする。佛光寺の寺号は、後醍醐天皇が東南の方向から一筋の光が差し込むという夢を見たという場所に、興正寺の盗まれた阿弥陀如来の木像が出てきたという霊験に由来する。これにより「阿彌陀佛光寺」の勅号を賜り、それを縁に山科より京都渋谷に寺基を移したともいわれる。

元亨元年(1321年)、覚如により親鸞の廟堂である「大谷廟堂」を寺院化し、「本願寺」と号する(〈大谷〉本願寺の成立)。寺基の移転にともない佛光寺は、多くの参詣者を迎え隆盛をきわめる。一方の本願寺は、当時は青蓮院の末寺に過ぎず、第8世法主蓮如の時代の寛正6年(1465年)1月9日に、延暦寺西塔の衆徒により大谷本願寺が破却されるまで次第に荒廃していく。

佛光寺は、興隆にともない天台宗・延暦寺の弾圧が強まっていく。応仁元年(1467年)、第13世光教の時に応仁の乱が起こる。京都の街は戦火に巻込まれ、佛光寺も諸堂を焼失する。乱のさなかの文明3年(1471年)、蓮如は吉崎で布教活動を開始し本願寺教団は急速に発展していく。

文明13年(1481年)には、第14世を継ぐべき経豪(後の蓮教)が本願寺の蓮如に帰依し、山科西野に再び「興正寺」として別に創建、48坊のうち42坊など有力末寺とともに本願寺に帰参してしまった。佛光寺の寺勢は急激に衰え、代わって本願寺が台頭するところとなる。

残った有力末寺6坊は、経豪の弟経誉を知恩院からよび戻し、佛光寺第14世とした。以上の経緯から経豪は佛光寺歴代に数えられていない。天正14年(1586年)に豊臣秀吉の懇請により、寺基を五条坊門の龍臥城(現在地)に移す。「仏光寺通」という通りの名前にもなっている。


洛中古寺シリーズ(11)「因幡薬師堂(いなばやくしどう)」、またの名を「平等寺(びょうどうじ)」

所在地  下京区松原通烏丸東入ル因幡堂町728
   宗派    真言宗智山派
   拝観    境内自由
   千年以上変わらぬ場所に佇み、安産、病気平癒に霊験あらたか。  

平等寺は、京都市下京区にある真言宗智山派の寺院。山号は福聚山。本尊は薬師如来。因幡堂、因幡薬師の名で親しまれている。観音堂(十一面観音像を安置)は洛陽三十三所観音霊場の第27番札所である。京都十三仏霊場第7番。 『因幡堂縁起』(『山城名勝志』所収)、『因幡堂縁起絵巻』(東京国立博物館蔵)などに創建の由来が書かれている。縁起は諸本によって内容に若干の違いがあるが、おおむね次のような話である。

大納言橘好古(たちばなのよしふる)の孫である少将橘行平(ゆきひら)は、長徳3年(997年)、因幡国司としての任を終えて京に帰ろうとしていたところ、重い病にかかった。ある夜、行平の夢に貴い僧が現れ、「因幡国の賀露津(かろのつ)の浦に貴い浮き木がある。それは仏の国(インド)から衆生を救うために流れついたものである。それを引き上げてみよ」と言う。

行平が賀露津の漁師に命じて、波間に光るものを引き上げてみると、それは等身の薬師如来の像であった。この薬師像を祀ったところ、行平の病は癒え、京に帰ることができた。この薬師像は天竺(インド)の祇園精舎の四十九院の1つ、東北療病院の本尊であった。行平は薬師像をいずれ京に迎えると約束して因幡を後にしたが、その後因幡を訪れる機会がないうちに長い歳月が過ぎた。

その後、長保5年(1003年)4月7日のこと、行平の屋敷の戸を叩く者がある。戸を開けてみると、それは因幡からはるばる虚空を飛んでやってきた薬師像であった。行平は高辻烏丸の屋敷に薬師像を祀った。これが因幡薬師平等寺の起源であるという。なお、薬師如来像が引き上げられた年を天徳3年(959年)とし、行平は勅命で因幡国一宮に参拝し、京に帰ろうとした際に病気になったとする縁起もある。

一説に薬師仏は因幡国にあった在地豪族・因幡氏の氏寺の薬師寺に安置されていたといい、行平が京都へ持ち去ったとされる。南都における寺院勢力の強勢振りを嫌い、平安京内には、官寺である東寺・西寺以外に寺院を建立することは禁止されていた。ただし、貴族の持仏堂は、建立が認められていた。本寺も、これに相当する。また、六角堂(頂法寺)や革堂(行願寺)のような、町堂(辻堂)の建立も認められていた。因幡堂も、これらと並んで町衆の信仰を集めた町堂の代表格である。

「平等寺」を出て、烏丸通(国道367)に出て南下、数百メートルで五条通(国道1号)に出る、これをさらに東に300m程行き、やや斜めの道、富小路通に入り、200m余りで、お目当ての「長講堂」に着くが、門が閉ざされており、断念せざるを得なかった。

この辺りは「本塩竈町(もとしおがまちょう)」と言うが、ここも小さめの寺が密集しているが、門を開けている所は少ないし、何よりも足の疲労が限界を超えており、時刻は未だ15時になったばかりではあるが、ビールが頭の中に充満してきたので、足は頭とは別に京都駅(約1.5Km)に向っていた。(本日京都を歩いた地図上で計った距離は約9.3Kmであった)

駅ビルでビールにありついたのが、15時50分、少し早目の乾杯であった。 本日ここまでの歩数は実に19、908歩足腰が痛くなるのは当然のこと、体力の衰えはどうにもならない。ま、ここまで安全に、楽しく来れたのだからと、自らを慰め”鳥から揚げ”の味を噛みしめるのであった。

かくして、今回の”京都てくてく”は締めるが、合計するとお寺が11、神社が2、他に御苑と市役所も表だけであるが、見る事が出来、上出来と数の上では納得した。

前に書いた、京都の主要寺院168に対して、今回分を加えると、訪れた寺院の合計は63となり、その38%達成となった。未だ未だ行く所は多くあるのだ!。

なお、”感動度(?)”は余り高くなかった。それは真冬に古寺を廻るという企画に起因していることと思い、総合的には略満足な一日であった。(本日の総歩数22,965)

合計11編と言う、長編”洛中散策”もようやくこれにて完結した。お粗末な内容ながら、ご覧戴いた方々には、心から感謝申し上げる次第である。 桜のシーズンが来たら、再度歩いて見たいと思い、その時期を待ち焦がれているが、それまでに震災で被害に遭われた人達が落ち着かれる事を祈るばかりである。

                完

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コメント

shuttle
2011年03月28日 08:56
木燃人さん
寺院の興亡歴史は、武家社会の興亡に劣らないくらいです。鎌倉時代信仰仏教が興って、既成仏教を駆逐しました。貴族仏教の衰退と民衆に根を下した仏教の興隆です。真宗などはその代表でしょうね。しかし、やがて真宗内でも抗争や覇権争いが起こって、分派活動が盛んになります。貴族の代表である皇室との結び付きも強くなり、その保護も受けるようになるようです。木燃さんが引用された解説文からだけでも、そのあたりの消息が窺われ興味深かったです。


木燃人
2011年03月28日 19:56
shuttleさん
このお寺達は、長い長い歴史があり、その中には幾つものドラマや尊い命の代償の山があったものと思います。その古寺の幾つかを廻ったことで、その時代に思いを馳せることのきっかけになればと思います。 これにて”洛中散策シリーズ”を完とします、永のお付き合いをありがとうございました。